残り24日。台湾のCindyよりインプットがあったので、それについて。(写真はすべて、”Urban Forest by MAD”, December 10th, 2009, Dezeen Magazineより)
これは、中国のChongqingに建設予定の”Urban Forest(重庆森林)”というビルのイメージ。見た途端、このマルチレイヤーの空中庭園にははやく一人前になって住んでみたいと思った。
壁がすべてガラスで透明なことで、都市内部の高い場所にありながら、緑をメトロポリスの迫力ある姿とともに景観として味わえるようになっている。
非常に面白い、かつ意義がある、と思ったのは、よくみると、屋外・屋内ともに、3フロアくらいで緑を共有できる、という点。景観的にも用途的にも住人同士シェアする、というのは、Commons(共有資源)として機能しコミュニティの構築・持続を促す点で大事な要素。
最後に、こういった緑と都市建築の融合を図るこころみに対し、なされる反論に、「このような緑は人工的で、人に擬似的な満足しか与えることができず、自然とはいえない。」といったものがあるが、
■よく考えてみれば、現代人の効用は自然からえているわけではない。
例えば、バークレーにきてつくづく思うのだが、東京に20年もすんでしまうと、騒音があろうが、振動がすごかろうが、(一定レベルを超えない限り)あのカオスな景観自体が落ち着く。
つまり、現代人の効用関数は、x (x: 自然の量) のみが 変数でなく、y (y: ぱっと外をみまわしたときに目に入る建物の数) やz(z: 周囲のノイズ) など、様々な変数が加わっている。さらに、人によって変数へのウェイトが異なる。仮定をいろいろおくが、xのウェイトが極端に高い人は、頻繁に山や海に旅行にいくはずだ。もちろんそのウェイトは経年変化するし、自分はこっちにきてから、xのウェイトが高くなった。日本帰ったら、10年以上ぶりに富士山のぼりにいきます。
■2つめ、それは”自然”という概念について。
この言葉をきくと、”里山*”と、黒川紀章の提案した”共生”というアイディアが思い浮かぶ。
”里山”は、まさに上でちらっとでたCommonsの代表例。山の麓の住人が、山を”人工的に”手入れして共有資源としての価値を最大化するもの。実際、日本の森林は、
・江戸以前:過剰利用
・江戸時代:政府の規制・監督による適切な持続的な木材利用など、Commonsとしてベストな状態
・江戸以降:放置により木材資源としての利用価値低下
といわれる。つまり人間にとっての自然というのは、一定レベルの介入が必要である。その意味では、自然とこのUrban Forestの違いは、自然と人間のバランスが逆転しただけといえる。
こんなことを思いながら、バークレーという街のリズムをまだまだ感じてたいと思いながらも、東京のリズムをはやく感じたいなーと思ったのでした。今年の夏は六本木に住めるので楽しみ。
さて、まだいろいろ書きたいのですが、明日は山場なのでここまでで。あと最近建築系のインプット全然はいってないな・・・
では
−−−
里山*・・・日本は資源欠乏のおかげでこのCommonsの利用というのが世界的に見てもうまい。昨年のノーベル経済学賞の一人、Elinor Ostromは、世界中のCommon Property Managementを研究したのですが、そのなかの一つの例が、日本の漁業民の漁場経営だったりします。
<参照>
”Urban Forest by MAD”, December 10th, 2009, Dezeen Magazine, http://www.dezeen.com/2009/12/10/urban-forest-by-mad/
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