2009年1月29日木曜日

おいしくない、コーヒーの真実




コーヒー1杯の値段:一杯当たりコーヒー豆生産者の収入


『おいしいコーヒーの真実』をみて。僕は、コーヒーは最低一日3杯はのむので、それだけ罪悪感は大きかった。この映画は南北問題、特に「先進国が価格主導権を持つコーヒー豆生産に苦しむ農業従事者と、その裏の貿易構造」を描いているが、コモディティ、特に趣向品なら大抵このストーリーを当てはめることができる。「おいしい○○○○の真実」という具合に。

こういうドキュメンタリーでは、定石で多国籍企業がやり玉にあがるわけだけど、いつも思うのは、一次生産者、中間に入る企業、からエンドユーザーまで、「誰も悪意はない」ということだ。というのも、誤解を恐れずに言えば、途上国で経済発展を望むコーヒー豆生産者、利潤最大化をめざしNY先物市場で買い付けを行うバイヤー、市民権を得た”経験経済”型商品の一部としてスタバでコーヒーをすする消費者、どの当事者もごく普通に経済行動を営もうとしているだけだから。もちろん、格差・不平等に対して、各自の責任は大きく異るけど。

その「誰も悪意はない」ことも、状況の打開を送らせている原因の一つだろう。特に先進国側は「悪意はない」ということを、過度な利潤追求を正当化するよい理由にしうる。

さらに、「誰も悪意はない」ことはドキュメンタリーの視聴者にとっても、よくない。なぜなら、その印象を受けることで、責任の所在を一団体のみに見いだすことができずに、混乱し、何もアクションをおこせなくなってしまう。僕を含め、人は分かり易い論理がすきだから。

そもそも、ドキュメンタリーは「取材映像をもとに事実をそのまま伝える」とされることが多いけど、大抵”事実をそのまま”伝えていない。というか伝える必要がない。なぜなら、ドキュメンタリーの最大の目的が、2時間弱の尺での、視聴者に対する効果的な共感の訴求と行動の喚起だとすれば、映像の見せ方は恣意的であっていいから。誰だったか、「ドキュメンタリーは本来的に、取材映像を集めて、選んで、編集者の思いが伝わるよう、構成を最適化している時点で、客観的にはなりえない」と言っていた。むしろドキュメンタリーは、普通の映画のように俳優を使ったり綿密な演出ができず内容には手を加えられない反面、取材映像の選び方や構成の仕方が、ふつうのフィクション映画よりよっぽど作為的になりうるはず。数字の見せ方1つとってもそうだと思うし。


そんなわけで、この映画には、ドキュメンタリーとして効果的に農家VS多国籍企業という善悪の図式を描こうとする試みと「誰も悪意がない」というジレンマを感じました。
全く詰まってないのですが、映画でエチオピアのコーヒー農協の長、タデッセ・メスケラ氏が「なるべく中間団体を通さず先進国の焙煎業者に直接提供することで農家の健全な利益確保を目指したい」と言ってましたが、それをピアプロダクションを使ってもっとラディカルに構造転換できないかな、と考えています。LIPで次の事業をこれ関連でいけたら面白いなと思います。
ていうか、ドキュメンタリーの興行収入とその視聴者が実際に行動を起こす確率って相関どのくらいなんでしょうか?気になります。

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