2009年3月15日日曜日

世の流れ、と直感の使いかた

 ・直感は後天的に鍛えられるものである

という前提のもとに、書いてみることにします。


個人、というのは所詮非力で、完全に1人で何かを成し遂げるは非常に難しい。ましてや、この現代社会においてはあらゆる事象の複雑化が進み、一層困難である。

だからこそ、人は協力し、何かを成し遂げるためのベストプラクティスを目指す。あるいは新たなそれを目指す。一見、”協力”から最も遠い存在であるようにみえる、芸術家も、現代において、というよりは中世のパトロネーゼが衰退し、さらにアートマーケットが不在の日本においては、”協力””戦略””金銭”などのマネジメント能力が大いに必要とされる。その象徴的な成功例が、村上隆なのだろう。

話を戻せば、個人が単体では非力だから、協力し実行力その他が高まる、というとこまで書いたが、その先はどうなるのだろうか。

現時点では、最終的には個人の判断にすべての問題が還元される、と考えている。ここでいう個人とは、組織の頂点にいる人、中間層、下層、ヒエラルキーのない集団の構成メンバー、すべてを含む。全ての人間は、日常生活から仕事まで、あらゆるレベルで判断を下している。

その判断をする際に重要なのが、直感である。ここでの直感とは、その人の過去の関係する経験の全てが、不可視の瞬時に働く判断システムとして頭ないし体に内在化したもののことを指す。その意味では、よく使う言葉での経験則に近く、一方いわゆる”カン”からは遠いものである。

この直感を鍛えることが、自分にとって非常に有用に思える。というかまだ完全に証明されていない(というか直感というものに還元した時点で、それがどの程度質量両面で有用性があるかは図りにくいと思われる)のだが、
その直感こそが、圧倒的に変化の流れの速い現代社会を謳歌するためのmustなのではないだろうか。人が、重大な決断を差し迫られたとき、情報収集+理詰めで9割いけても、最後の1割は、上記の意味での直感なのでしょう。

自分の文脈に重ねてみれば、半年前、1年前、3年前を振り返り、自分の選択をみてみると、当初の計画から良い意味でずれていると思う。
そのようなズレは、個人の力で制御できない世の流れに大きく起因していて、過去のある時点のwhat ifを考えたとき、今の自分とは異なるシナリオに乗っている自分がそこにはいるのでしょう。ただ、あまり生きてきた年数が長くないので、what ifのポイントが少ないのは事実だし、対してシナリオに違いはない。しかし、10年後に振り返ったときに、間違いなく、今数あるうち一つのポイントになるであろう場所にいる感覚がある。

あと、過去の経験から昇華した不可視の瞬時に働く判断システム(長いな・・・)である直感を利用とするメリットとしては、判断の際に自分の軸がぶれないということも挙げられると思います。



PS 読み返すと、簡潔に言語化できてない、という点で駄文ですね。直感についてきちんと勉強すべきかもしれません。

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